こんにちは、大仏コーチングです!
みなさんは、どんな幼少期や学生時代を過ごしてきましたか?
このブログでは、自己紹介も兼ねて、大仏コーチングの「生い立ち」についてお話しいたします。
泣き虫だった幼少期
私は、みんなが手を焼くほどの泣き虫でした。年少まで、母がそばに居ないとすぐに泣いていました。節分の時、幼稚園に鬼がやってきたのですが、鬼が相当怖かったのでしょう。豆をまくどころか、泣きじゃくっていました。先生を困らせていたほどです。しかし、ある時を境に泣かなくなったのです。当時は、何も考えていなかったですが、今思うと、2つ上の兄が小学生となり、その場に居なくなったことで、「しっかりしないと」という気持ちになっていたのかもしれません。
野球を嫌いになった話
大前提、野球は好きです。今でも時間があれば、プロ野球をプレイボールからゲームセットまで観るくらいです。そんな私ですが、一度だけ野球が嫌いになったことがありました。それが小学2年生の時です。当時のコーチが怖くて練習に行けなくなりました。それから1年間休部して、3年生の時に復帰しました。やっぱり野球が好きだったのだと思います。学校でも普段通り接してくれて、暖かく向かい入れてくれた仲間には感謝しかないです。野球があったから今の私があるので、あの時、やめていなくて本当に良かったです。
中学時代の話
中学時代、私はピッチャーでした。当時、知識がなかった私は、走れば走るだけ球が速くなり、コントロールも良くなると思っていたので、監督・コーチに言われるがまま、走っていました。しかし、ピッチャーとしては結果がでませんでした。我慢強さや忍耐力は身に付きましたが、体重が増えない、足を痛めるなど、良くないこともありました。そんな時にある人に出会い、いろいろな練習方法を知ることができました。この時初めて、努力の仕方を間違えていることに気づきました。中学3年の夏だったので、約2年半かかりました。学んだことは、自分に合った努力の仕方があること、それを見つけるための努力もあること。何より、知らないということが一番怖いことを学びました。
高校時代の話
私は控えのピッチャーでしたので、毎日バッティングピッチャーをやっていました。自分で言うことでもないですが、バッティングピッチャーは大変な仕事です。練習のある日はだいたい毎日、100球以上は投げるのですが、投げるだけであればそんなに大変ではないです。試合に勝つための練習をしなければならないので、投げる球も試合を想定できる球を投げないと練習にならないですし、何より、コントロールが悪いと守備のリズムが悪くなります。特に試合前は、レギュラーの選手が私の投げる球、一球一球で調整をするので、かなり神経を使っていました。試合に勝てば嬉しいですが、負ければ、責任を感じることもありました。結局最後まで、バッティングピッチャーで高校野球は終わり、チームとしても甲子園には行けませんでしたが、誰かのために努力できる人間だと気づくことができたので良かったです。この経験がコーチングをするきっかけにもなりました。少し専門的な話になってしまいましたが、とにかくバッティングピッチャーは大変です。
学生時代にレギュラーになれなかった人、悔しい思いをした人に伝えたいこと
私が学生時代、控え選手だった話をしました。私のようにレギュラーになれなかった人はたくさんいると思います。私以上に悔しい思いをした人もいると思います。私は、大学1年の途中まで、引きずっていましたし、自分に自信を持つことができなかったです。野球でレギュラーになれなかったことで、自分はダメな人間だと決めつけていたのだと思います。そんな時、高校時代の同級生がある業界で活躍している姿を見て、ふと思いました。「俺は何をしているのだ」と。それから目標を持って生活するようになりました。前置きが長くなりましたが、何を伝えたいかというと、言い方が悪いですが、たかが部活で、自分の可能性を狭める、限界を決めつけるのはもったいないということです。人生はこれからの方が長いです。嬉しかったこと、悔しかったこと、全てを踏み台にして前に進みましょう。こんな私でも自分に自信を持つことができたのですから、大丈夫です。